観実論

観実とは

哲学や科学そして
宗教等の人類の英知と
様々な人々の経験談そして
庵主の経験を総合して
俯瞰し勘案して得た知見から

・人生の歩み方
・幸せな人生の終わり方
を主軸として解説し
併せて
 ・善悪とは何か
 ・世界はどのように成り立っているのか
 ・意識はどこから生じるのか
 ・天国、極楽、地獄は有るのか
 ・死後の世界よりも重要な死期
等についてもお話しします

観実の構成

観実の論じる所については  観実論で
観実論の基になる説明を   観実説で
観実説の根拠を       観実由で
この三つの章に分けて説明します

ここに述べる全ては
庵主の経験により導き出したものであり
「人は経験によって作られる
 経験が異なれば
違った意見や主張が生まれる」
との考えに基づき
ご感想や情報提供は歓迎いたしますが
論争は無意味ですので謝絶いたします

論争は非難を生み
非難は憎しみを生み
憎しみは戦争を生み
戦争は殺戮を合法化します
殺戮の合法化の行き着く先は
人類の破滅です

この世界に必要なのは
論争ではなく相互理解です
相互理解が互いの尊重に発展し
そこから慈愛が生まれれば
この世界から苦しみや悲しみが
消え去るでしょう

この世界の一人一人が
人生の目的に背く恐ろしさを知れば
相互理解に目覚めるでしょう

■観実論 11の核心

観実について11の核心を
真実層、顕実層、結論層、観実層の
4層に分けて述べます

真実層

①唯一の真実は今の刹那を意識している自分が居る事
庵主
庵主

あなたを取り巻く世界や人々は
本当に存在しているのでしょうか?

確かに存在しているように思えます

目の前にあるリンゴをかじれば美味しいです
でもそれはあなたの独り舞台のために
用意された小道具かもしれません
正気なら「そんなはずはない」と思いますが

そんなはずはないことを証明できますか?

あなたの近くにいる人に
「あなたは誰ですか?」と尋ねれば
「○○です」と答えが返って来るか
怪訝な顔をして無視されるかわかりませんが

間違いなく何らかの反応が返ってくるでしょう
しかしその人があなたと同じように
意識を持った人間であると証明できるでしょうか?

その人はあなたより高度で高性能な
舞台装置かもしれません
あるいは幻影かもしれません

昨日の出来事を思い出してください
それは本当にあった出来事でしょうか?

あなたがそう思っているだけかあるいは
そう思い込まされているだけかもしれません

昨日は本当に在ったと証明できますか?
あなたは夢と現実の区別ができますか?

夢が覚めて
「あれは夢だった」と思うことは確かにあります
夢の中で寝る前の出来事が
現実だったと確認できますか?
夢が現実で 現実が夢かもしれません
それとも全てが
幻や蜃気楼のようなものかもしれません

天に向かって
「こんな茶番劇は止めてくれ!」と叫べば
周りの世界はすべて崩れ去るかもしれません

つまり あなたが
間違いなく存在していると確信できるのは
今の刹那を意識する自分が居る事だけです


だからと言って現実の世界で
好き放題やりたい放題するのは
賢い選択ではありません

好き放題やりたい放題しても
何の問題も起こらないかもしれませんが
あなたの経験からすれば
まず間違いなく好ましくない結果が
返ってくるでしょうから
経験則に従って現実を判断し生きるのが賢明です

顕実層(経験則に基づく層)

②現実は虚であり全ては経験からの想像である
庵主
庵主

あなたの本当の姿を知っていますか?

科学の知見によれば
自分の体を含め
この世界の全ての物質は
原子で構成されており
原子と原子の間は空間でスカスカです

その証拠にあなたの体をX線は素通りします
ニュートリノはどんな物質も透過します

あなたは生まれてから
そんなスカスカな世界を
五感を通して感知し蓄積して
原子の集まりである物体ごとの
形、色、香り、感触、味などを
記憶し蓄積します

それによって物体ごとに
それが何であるかとの認識を形成します

例えば目の前のリンゴは
スカスカな原子の集合体ですが
それを五感を通じて感知して
赤いリンゴと記憶します

そして目の前に赤いリンゴがあると
それを五感で感知してそれらを記憶に照らし合わせて
赤いリンゴとして認識します

このように世界の本当の姿は
私たちが認識する現実の世界とは全く違っています

例えば私たちが五感即ち
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚で認識する赤いリンゴは

目で見ると赤い色をした球体に近い形状で
たたくとやや柔らかい音がして
甘い香りがして
触るとすべすべして
食べると酸味と甘味の独特の味がします

今、私たちが見る目の前の赤いリンゴの姿を
本当の姿だと仮定してこのリンゴを
触覚しか持たない仮想動物が触れてみると
何か丸い凸凹した物と認識するでしょう

色しか判別できない仮想動物が見たら
何か赤いものと認識するでしょう

香りしか判別できない仮想動物が感じたら
甘い香りの空間と認識するでしょう

どれも私たちが見る
本物と感じる赤いリンゴではありません

もう少し具体的な例を挙げると
私たちは紫外線を見ることができません

しかしミツバチや蝶類は
紫外線を色として認識します

私たちは電波を感じ取る器官を持たないので
電波を感じる事ができません

しかし電波を感じ取る装置
例えばテレビを作って
電波を私たちの感覚で捉えることのできる
音や色に変換するのでテレビを見ることができます

五感以外の何らかの感覚を持つことができれば
赤いリンゴはもっと違ったものと捉えるでしょう

このように
私たちが現実の世界と認識しているのは
私たちの限られた五感が経験により創り上げた
虚像の世界なのです

③人の心は経験により作られる
庵主
庵主

あなたの心は何でできていますか?
あなたの今の心は1年前の心と同じですか?
同じ心でないなら何が変えたのでしょう?

1年の間に色々な事があり色々考えたでしょう
その思考が新たな行動を生み
またその行動が積み重なって経験となり
経験が心を作ります

あなたの心の多くは
あなたに関わった人や経験でできています

「朱に交われば赤くなる」 「孟母三遷の教え」など
古くから伝わる教訓はまさにこの事を表しています

「朱に交われば赤くなる」とは
朱(赤い顔料)に触れれば赤くなるように
あなたの近くにいる人によって
あなたが染まる

つまり悪事を働く人の近くにいれば
影響されて悪事を働くようになる

好ましい人の傍にいれば
好ましい影響を受ける
との格言です

「孟母三遷の教え」とは


今から約2400年前に孟子と言う
中国戦国時代の儒学思想家が生まれました

孟子は最初墓地の近くに住んでいて
葬式のまねごとを始めたので
お母さんは市場の近くに転居しました
そしたら孟子が商人のまねごとを始めたので
学問所の近くに転居しました
そして孟子は学問を志し
儒学思想家として大成した
という逸話です

環境による経験の積み重ねが
人の行動や志向を創るので
教育には環境が大切だ
という教えです

英語の格言

英語にも次のような格言があります

“Show me your friends
and I’ll tell you who you are.”
“A man is known by the company he keeps.”
“Tell me who your friends are
and I’ll tell you who you are.”

環境が積み重なって経験となり
経験が人を作る


これが古今東西の経験が生んだ知恵です

経験は人それぞれ違って同じものはありません
故に人の心や考えは人それぞれ違います
どれが正しくてどれが間違っている
という世界ではありません

どれもその人にとっては正しいのです
ですから
互いに理解しあうことが必要なのです

④人は時空を超えて因縁でつながっている
庵主の祖母
庵主の祖母

人と言う字は1本では立たない

庵主が幼い頃祖母から言い聞かされた言葉です
しかし妹は「武士に二言は無い」と
言い聞かされたそうです

祖母は最後の侍の娘で
当時の女性としては大柄で
いつも背筋を伸ばして正座していた姿が
目に浮かびます

丙午の生まれで気高く確固とした
自分の考えを持っていました

そして子供の素質を見抜く力を
持っていたのでしょう
だから庵主と妹に違う言葉を
残したに違いありません

ちなみに庵主は
あんなに言われた言葉の
意味を介さず人に無関心で育ちました

そして社会に出てもまれて
祖母の言葉の意味を悟りました

祖母の言葉が今になって庵主の行動に
大きな影響を与えていると感じています

この祖母の言葉は
祖母自身の経験から
生まれたものかもしれませんし
もっと昔のご先祖様の経験から
受け継いだものかもしれません

仮に祖母の経験から生まれた言葉
だとしてもその経験は外界からの影響
例えば他人の言葉、書物などを受けています

それが祖母を通じて庵主に伝わり
庵主からまたあなたに伝わるかもしれません

そこからあなたは
新しい行動を起こすかもしれません
これを因縁と言います

例えば ひまわりの種があるとします
これが因です
種は種だけでは発芽しません
一定の水分や温度などの条件で発芽し
土中の栄養分で花を咲かせます
この水分 温度 栄養分などの
環境を縁と言います

因縁により人は時空を超えてつながっています

とりわけ大きな因縁である祖先をたどり
祖先のどのような思いが
あなたの命につながったかに
思いを馳せれば
生きる力が湧いてきます

⑤人には魂があり魂が善を渇望します
庵主
庵主

魂はあるのでしょうか?

あなたはより善く生きたいと思いませんか?
そんなこと思っていないですって!

よぉ~く 心の底に耳を澄ませてください
どんな悪人も心の奥底で
善く生きたいと願っています

どんな人も心の底で善く生きたいと思っている
それが魂の存在している証です

魂はあなたの人生の道標であり善への渇望です
善への渇望を信じる人に
幸せと生きる喜びが訪れるのは必然です

善への渇望を信じる人には心の平安が訪れます

心に平安がある人には
生も死もありません
唯今が在ります

魂は活きるための道を指し示します

しかし無意識の奥底に潜んでいる
魂の叫びはなかなか聞こえません

意識して魂の声を聴こうとする努力が必要です

努力しても努力してもすぐに声は聞こえません
しかし魂に問う努力をしていれば
いつか必ず答えが返ってきます

この魂を一般的に言われる魂と分けて
「源魂」と呼びます

⑥人に時間は存在しない
庵主
庵主

時間とは何でしょうか?

朝8時に朝食を摂って
12時に時計が昼食の時刻を教えてくれます
朝の9時に始業する会社では
社員全員が9時から仕事を始めます
時間とはある時刻と時刻の間を図る尺度です

尺度は一定の社会の中で共有されています

例えば30センチの定規はだれにとっても30cmです
時間も同様です

学校で先生が生徒に
「1時間後に体育館に全員集合してください」と言えば
全員同じ1時間後に体育館に集まります
私の1時間後はだれにとっても同じ1時間後です

私の1時間後とあなたの1時間後が同じでなければ
時間は尺度と言えません

逆に言うと尺度でない時間は時間と言えません
生まれてそして死ぬ体を持つ生物だけが
生から死までの経過を
時間のようなものと感じるのかもしれません

庵主の不思議な体験 概略

1963年 中学2年生の夏
京都の高尾の清滝川で溺れて
不思議な体験をしました

溺れて苦しくてもう駄目だと思った瞬間
溺れる自分を上から見ていました

河原に多くの人が居ましたが
誰も溺れているのに気づきません

山は緑の木々に覆われ
川は涼やかに
音を立てて流れていました

その光景も人のざわめきも
見ているのではなく
聞こえているのではなく
唯感じていました

それからしばらくして
生まれてからこれまでの出来事の光景が
走馬灯のように流れました

その瞬間足が川底について
現実に戻り岸に這い上がりました

溺れていた時間はわずか十秒程
その間は時間の感覚は全くありませんでしたが
それ等の光景を思い出すと
少なくとも数時間はあったでしょう

とても不思議な体験で
これは一体何だったのだろうと
ずっと疑問に不思議に思っていました

それから30年以上経って
立花隆の「臨死体験」を読んで
これが臨死体験だったのだと気付きました

そしてこのように臨死で時間が著しく伸びる
或いは時間が無くなる感覚は
臨死体験者に共通する経験だと知りました

つまり時計が刻む1時間は1時間ですが
人の感じる時間は伸びたり縮んだりします
人が感じる時間は主観的であって
尺度が無く時間とは言えません
ただ頭の中で光景が流れて行くだけです

ゼノンのアキレスと亀

ギリシャの哲学者ゼノンが提示した
アキレスと亀」と言うパラドックスがあります

俊足で名高いアキレスが亀を追いかける場合

亀が最初にいた地点にアキレスが着いたとき
亀はその地点より少し先に進んでいます

その地点にアキレスが着いた時には
亀は更にその先に進んでいます

つまり俊足のアキレスは亀に永遠に追いつけません
これと同じようなことが死の間際に起こっています

つまりアキレスは「死」であり「亀」は死に逝く人です
死に逝く人を枕元で見送る人は
時間が経てば必ずその人が死ぬのを見届け
葬儀を行います

しかし死に逝く人にとっては
永遠に死に追いかけられていると
感じるかもしれません

死に際が幸せであれば
永遠の天国 極楽 浄土のように
感じられるでしょうし

死に際が地獄のような状態であれば
それが永遠に続くと感じられるかもしれません

この状態を抜ける事ができて
「死」に追いつかれた時
そう感じた時
初めて死の安らぎを迎えることができるでしょう

⑦人は死ぬ前に自らの魂に裁かれる

人生には人それぞれの目的があり
その目的を遂げて迎える死は
至福に満ちたものであり
その目的に反して迎える死は
苦しみに満ちたものであるのは必然です

苦しみは五感や経験から生じるものなので
肉体が完全に死んでしまえば崩壊してしまえば
苦しみは起こりえません
喜びも消え去ります
しかし、問題は死ぬ前です

人はどのように死に逝くのか
死への準備期

自然死の場合死期が迫ると
食欲が減退します

そうして肉体が
終わりを迎える準備をはじめます

意識混濁期

しばらくすると
意識混濁期が始まります

起きている時と寝ている時の
境がはっきりしなくなります
断続的に五感が遮断され始めます

五感が働いている時は
現実の世界にいる認識があります

五感が遮断されると
脳は五感に頼らず世界を把握しようとします

そして源波(波動のようなもの 「三源とは」参照)で
外界と直接つながります

五感から解き放たれたことにより
時空を超えて思い出の場所や知人を訪れたり
先立ったあるいは存命の知人や
知らない人が訪れてきたりします

臨床現場ではこれを「せん妄」と呼びます

現実ではない世界の話を当人がするので
意識の混乱や妄想の状態と判断しているわけですが
本当にそうでしょうか?

当人は源波で思い出の場所や
知人を訪れているのです

夢の知らせ等の言葉が存在するように
古来そのような体験が多く報告されています

庵主自身も叔母が夢枕に訪れましたし
父方の祖母も自分の子供(父の兄弟)が
戦地から死を知らせに来たそうです

父は亡くなる1か月ほど前に
先だった姉が会いに来て
「まだ来るな」と言われたと言っていました

それからしばらくたって
父は先だった姉が「いらっしゃい」と言っている
と言ってそれから数日後に亡くなりました

母は無くなる1か月ほど前からよく
「知らない人が部屋にやってくる」と
言っていました

死の床に臥せっているのに
遠くを訪れたり人に会ったり
誰も来てないのに人が訪れたなど
現実の我々にとっては有り得ないことを言うので
医学的には「せん妄」と決めつけていますが

実際は源波で知人と通じ合ったり
思い出の場所を訪れたりしているのです

そのような場面に出会われたら
「何をバカな」
「そんなことないよ」
などと否定せず
お話を聞いてあげてください
何時かあなたも同じ体験をするのですから

死の裁き

この時期から死の裁きが始まります

あなたが害した人が
恨みをもって
死の床にやって来るかも知れません

あなた自身の魂が
あなたの人生を振り返らせて
罪を咎めるかもしれません

これが地獄です

一方人生の目的を果たした人にとっては
嬉しい思い出を振り返えったり
恩を受けた人が感謝にやって来るかも知れません
知人が優しく迎えに来るかもしれません
幸せな思いに包まれるでしょう

これが天国であり極楽です

この経験が臨死前期あるいは
後期まで続くかもしれません

しかし死に逝く本人にとっては
時間が消え去り
この期間が永遠と感じるかもしれません

死の選択

最後に「もう駄目だ」あるいは
「さあ逝こう」と自分で決断して臨終となります

五感を完全に遮断し源識で外界を認識し始めます
これ以降のどこかで医師による死の宣告が下されます

臨死前期

五感はもう機能していません

しかし脳の機能はまだ残っているので
源識で外界をとらえて
記憶された経験で解釈し認識します

その結果
死の床に伏した自分や周りの人を上から見たり
ざわめきを聴いたりします

しかしそれは五感を通じて認識しているのではないので
現実の世界の感覚とは大きく異なります

ただ見ているように感じ聴いているように感じます

そこには自我はありません
喜怒哀楽もありません

自我や喜怒哀楽は五体由来するもので
それ等を遮断した後には自我も喜怒哀楽も存在しません

臨死後期

この期間で起こる事柄は
その人の育った環境や社会
そして宗教などによって異なります

例えば仏教の信者であれば仏さまに導かれて
キリスト教の信者であれば天使に導かれて
先立った知人あるいは知らない精霊に導かれて
あの世や彼岸に向かいます

光のトンネルを抜けたり、お花畑を通ったり
その人の死生観に沿った世界が展開します

なぜ人によって体験が違うのでしょうか?

この期間
人は現実では全く体験したことのない体験をします
それを自分の経験や知識に当てはめて
それぞれが解釈し認識するので
人それぞれ認識が異なるのです

例えば視覚しか持たない人がイチゴを見ると
イチゴが見えますが
においも触った感覚もありません
ただイチゴの映像だけを認識します

嗅覚だけを持った人がイチゴを嗅ぐと
甘いイチゴの香りだけを感じます
赤いイチゴの姿を感じることはできません

触覚だけを持った人がイチゴに触れれば
何か細かいブツブツの有る小さな物体だけを感じ取ります

このように同じイチゴを体験しても
その人の持っている感覚だけで解釈するので
三人三様の全く異なる解釈や認識をします

臨死後期の体験が人によって大きく異なるのは
人それぞれの経験と知識による死生観で
この期間に起こる事象を解釈し認識するからです

事故死などの突然死の場合

突然死の場合は
準備期と意識混濁期を飛ばして
「死の選択」から始まります

事故などで意識の遠のく人の側で
「頑張って」「逝かないで」と自然に声が出るのは
本人が「死の選択」をするのを止めようとする
人が持つ根源的な行動です

体が朽ちるのは意志で止められませんが
「死の選択」は自分の意志で行われます

⑧真の善とは

一般的には善を定義するのは著しく難しく
悪を定義するのは容易です

例えば、学校で難しい問題が出て
友達に回答を教えるのは親切です

しかし、教えることによって
友達が自分で考える機会を奪うのであれば
余計なお世話です
友達の学習機会を奪う点では悪です

収入が少なくて困っている人に
毎月お金を支援するのは
一見善行のように思えますが
そうでしょうか?

お金で支援することによって
その人の収入を増やそうとする努力や知恵を
摘み取っているかもしれません

お金で支援するより
収入を増やす方法を一緒に考える方が
結果的には善行かもしれません

ゲームばかりやって
勉強しない子供から
ゲーム機を取り上げたらどうでしょう?

勉強に集中するようになって
難しい大学に入って
一流と言われる会社に入社できて
安泰な生活をできるかもしれません

反対に親の干渉に我慢できなくなって
家を飛び出し身を持ち崩すかもしれません

ゲーム機を取り上げず好きなようにさせたら
成績が落ちて進学もままならず
その後の人生も生きづらくなるかもしれません

一方四六時中ゲームに打ち込んで
e-sportsで優勝して
若くして立派に自立するかもしれません

事程左様に何が善かと定義するのは困難です。
一方、一般的な悪の定義は簡単です

法律に反するのは悪
社会規範に反するのは悪

なぜ人を殺してはいけないのでしょうか?

答えは簡単、法律や社会規範に反するからです

法律や社会規範は理想的には
その社会がより良く存続するために作られています

この「より良く」の定義が困難ですが
その時々の社会の一般的な共通認識に基づく
としか言いようがありません

では真の悪とは善とは何でしょうか?

一般的な善悪と反対に真の善悪では
悪の定義は困難不可能と言ってもかまわないでしょう

しかし善の定義は簡単です

庵主
庵主

人を殺すのは「悪」ですか?

とんでもない質問だと思われるかもしれませんが
良く考えてみれば「悪」とは限らないと
直ぐにわかります

例えば戦争 戦争は悲惨です
あなたの国が隣国から攻め込まれ
あなたは戦って敵を多く殺し
あなたの国を侵略から守ったとします

敵を殺したあなたは悪人ではなく英雄です
今では国際法では
戦争(戦闘)による殺人は罪ではありません

大昔、2000年ほど遡ると国際法などありません
でも自分たちの集落が攻められたら敵を殺さないと
自分たちが滅びます

より多くの敵を殺した人は集落を救った英雄です

このように考えていくと「真の悪」の定義は困難です

一方「真の善」の定義は明白です
それは「生きながらえること」です

あなたが 家族が 社会が 国が 人類が
生きながらえることが「真の善」です

言い換えると「人類の種の継続」が唯一無二の善です

あなたが 家族が 社会が 国が 人類が滅びれば
善も悪も意味を失います

あなたが今生きていることに意味があるなら
いや 生きていることに意味があります

故にあなたの命を保つこと
「生きながらえること」が真の「善」です

人の命には限りがあります
その時が来るまで全力で生きながらえることが
あなたにとって真の「善」です

もう一つ付け加える事があるとするならば
あなたが あなたの人生の目的を見つけて
それを達成することが「次善」です

結論層

⑨経験する全ての事に意味がある

あなたに「善い行いをしなさい」と
源魂の声が聞こえるなら
あなたの人生に意味があり目的が在ります

あなたの人生に意味があるなら
経験するすべての事に意味があります

その意味する所が何であるのか
常に気に掛けることができれば
自ずと道は開けます

悪いと知りながら悪事を働いて上手く行って
これが正しい道だと思ってはいけません
これが正しい道だと
勝手な理由をつけてはいけません

自分は不幸だ理不尽だ
だから人の幸福をかすめ取っても許される
このように自己弁護する人がいます

それが正しいのかどうか
心の奥底にある源魂に耳を傾けなければなりません

喜怒哀楽、経験する全てが
生きる意味を探る道の一里塚です

前向きでなくてもいい
臆病でもいい
もがけばいい

そうすれば
自分にしかないものが
必ず見つかります

いつかそれを見つければ
そして振り返れば
あなたの後ろに真っ直ぐな道ができています

あなたの生きた証であるその道が
即ちあなたの生きる意味を指し示すでしょう

観実層

⑩全ての物質には意識があるそして死とは

物を分解していくと原子そして素粒子
(これ以上分解できない粒子)に
たどり着きます

つまり全ての物質は
生き物であれ鉱物であれ
原子の構成物として存在します

そしてこの原子や素粒子は
それ自体を認識する意識を持っています

加えて原子で構成された物体は
すべてその塊としての意識を持っています

この個別の意識は全て繋がっていて
宇宙意識を構成しています

この根本的な意識を源識と名付けます
個々の源識は個々であり同時に全体です

所が生物の意識はこの源識とは全く違います

個々の生物は
その生物が持つ感覚で
自らと外界を認識しています

人間は五感で自らと外界を認識していますし
植物は持っている感覚
例えば温度や光や触感で
自らと外界を認識しています

そして命が尽きた時
言い換えれば持っていた感触が失われた時に
源識に戻ります

源識には自我が無く自らと宇宙全体を認識します

観世音菩薩

仏教の観世音菩薩は
観自在菩薩とも呼ばれ
世界を自在に観察できる
菩薩を意味しています

世界を自在に見る事でもなく
自在に聴くことでもなく
すべて合わせて
「観」と表現しています

つまり五感を通して
世界を自在に見ているのではなく
ただ観している
即ち源識で世界の全てを
感じ取っています

⑪全ての源識は源波でつながっており世界は源波で満ちている

この世界は
波動の性質と波を伝搬する媒体を併せ持った性質を持っ物で
満たされておりこれを源波と名付けます

源波は時間を超えて同時に伝わります

源波は周波数のような性質も持っており
この周波数のようなものが
お互い合った物質同士で伝わります

例えば「あの人とは波長が合う」と言います
意見が合うとか趣味が合うとかではなく
もっと深いところでつながっていることを表します

宇宙は様々な周波数のようなものである
源波で満たされており
源波が原子や素粒子を生み

原子や素粒子は源波に戻り循環します

■観実説

観実論の元を説明します

三源とは

源識 源波 源魂 の三つを言います
源識は意識を
源波は波動を
源魂は魂を
基にした造語です

一般に使われる意識 波動 魂 で
言い表せないので造語しました

・すべての物体には源識と名付ける意識がある

生命体を除いてすべての物体には
原子も含めてそれぞれの塊で
自らを認識する意識があります
これを源識と名付けます

例えばここに鋏があるとします
この鋏は二枚の金属の刃と
その歯を止めるネジで構成されています

金属の刃も止めネジも鉄という元素の塊です
鉄の元素の塊は原子で構成されています
この鋏 刃 ネジ 鉄 原子
それぞれに自らを認識する意識があります

それが源識です
源識には意思も感情もありません
ただ自らが存在している意識だけがあります


生命体は塊を持った物体なので
これにも源識がありますが
生命体が源識で世界を認識する割合は
非常に低いです

何故なら生命体は独自の感覚を持っており
それで自らと周りの世界を認識しているので
源識をほぼ遮断しているからです

人間は五感 つまり
視覚 聴覚 嗅覚 味覚 触覚などで
自らと外界を認識しているので通常使わない
源識を無意識に遮断しています

喜怒哀楽などの意識と
視覚 聴覚 嗅覚 味覚 触覚で
認識する世界と
唯 自らを認識する源識が見る世界は
全く異なります

・全ての物体は源波でつながっている

源波概念図

源波は波動のように伝搬し
干渉し周波数を持つ性質と
それを伝搬する媒体の性質を
重ね持っています

源波の見かけの速度は無限大で
波と矛盾する性質も持っています

死の床に臥せる人が遠く離れた知人に自分の死を
知らせに行くのもこの源波です

源波は無数の周波数(のようなもの)を
持っています

死の知らせを受けた時
その人の姿が夢枕に立つ場合と
何かわからない得体のしれないものがやって来る
あるいはまったく何も知らせが来ない
場合がありますが

知らせる側と知らされる側の
周波数(のようなもの)が
ぴったり合えば
その人の姿が見えます

周波数(のようなもの)が
少しずれていると姿が見えず
何か得体のしれないものが訪れた感じになり

周波数(のようなもの)が
完全にずれていると
何も知らせを受け取れません

これをラジオの例で説明すると
周波数をぴったり合わせると
明瞭に放送が聞こえます
周波数が少しずれると雑音が混ざります
周波数が全く合わないと何も聞こえません

このような感じです

・私たちの世界は何故存在するのでしょう

生命誕生の不思議
進化の不思議
宇宙の不思議
それ等を意識する自分の不思議
この世界は不思議だらけです

このような世界が偶然にできたのでしょうか?

進化論が正しいとしても
生命の起源については解明されていません

量子力学を持ち出しても
この世界は理屈に合わないことだらけです

しかし源識を拠り所とすれば
何ら不思議はありません

この世界は全て
素粒子や原子と言われる粒子で
構成されています

生命もそうです
生物と無生物の差は
粒子の構成が異なるだけです

この世界は源波で満たされていて
源波は粒子を生み
粒子は源波に循環しています

つまりこの世界には無限の粒子があり
無限の粒子のの組み合わせがあります
その中の一つが我々の世界です

つまりこの世界は偶然ではなく
必然です

物質で構成され得る
あらゆる組み合わせの世界が存在し
人間の世界と宇宙は
その一つに組み合わせに過ぎません

・誰の心の奥底にも源魂がある

心を構成しているのは
・これまでの経験で学んだこと
・理性
・欲
・五感
・源魂
の五つの要素です

心の動きが意志となり行動に現れます
行動とは体を動かすことだけではなく
恥ずかしくて顔が赤くなるなど
身体的な変化も含みます

一般に使われる「魂」は
「肉体に宿り心の動きを司るもの」と
理解されていて
宗教によっては
肉体が滅びても魂は永遠に不滅である
とされています

源魂はこの魂とは少し違って
「意識の奥にある 善くありたいと願う潜在意識」を
源魂と名付けています

あなたの心の奥底にも
「善くありたい」と願う意識がありますね
それが「源魂」が存在する証明です

源魂は肉体に宿り
肉体が滅びるとき一緒に消滅します

・悪は欲から生じて欲は本来善である

欲の大元は生存欲であり
睡眠欲 食欲 性欲 等から
成っています

そこから
金欲 権力欲 支配欲 闘争心などが
派生します

欲は人類が持続するために必須の要素であり
本能に備わっています
従って欲するのは本来善です

生命が誕生したとき
その中から
生命を持続する要素を持った生命だけが
命をつなぎました

それが発展して原始の人間になった時
命を維持するために体を維持する食欲
体や精神の疲労回復のための睡眠欲
そして他と争っても食料を奪う生存欲
命をつなぐ性欲などが
本能として根付きました

生存欲は闘争心 支配欲 権力欲
そして貨幣が出現すると
金欲へと膨らみます

他の集団から襲われた時は闘争心によって
戦って相手を殺戮し自分たちの集団を守りました

反対に自分たちの食料を得るために
他の集団を襲って殺すことも
しばしばあったでしょう

自分たちの集団を守るためにあるいは
自分たちの集団を維持するために
相手を殺害するのは善でした

庵主
庵主

ではなぜ人を殺すのが悪となったのでしょうか?

身内同士で殺し合いをすると
自分たちの集団が破滅します

過剰な欲を抑制して自分たちの
集団を維持するために古来
仏教の五戒 モーゼの十戒
儒教などの様々な道徳、倫理
などの規律やが生まれました

これらの規律は
集団の維持と言う
同じ目的で生まれたために
異なった集団や宗教などにおいても
殺すな、盗むな等の基本規範は共通しています


近年にはそれ等を踏まえ
理念としての憲法や
憲法を細かい規則にかみ砕いた
法律に発展しました

そしてそれ等を包含し
過剰な欲を抑制する役割として
人それぞれの心の中に理性が形成されます

欲自体は本来善ですが
個人のあるいは集団の持続を阻害するような
行き過ぎた欲は悪です

例えば食欲について
行き過ぎた美食や過食は
健康を損ないます

逆に睡眠欲を押さえて
寝る時間を切り詰めて
無理をすると
これも寿命を縮めます

■観実由

観実論や観実説の基になっている
実体験や伝聞そして資料について述べます

庵主の臨死体験

それは中学二年の夏でした

京都の高尾のもみじ家別館の下に河原があり
夏はそこに川床を置いて
多くの人や家族連れが飲食をしたり
川遊びをしていました

清滝川は北から南へ蛇行しながら流れ
川幅が狭いところでは数メートル
広いところで10メートルほど

川は下流に向かって右側が崖で
左側はこぶし大の石ころが広がる
河原の間を縫うように流れています

上手から流れてきた川は
川幅が広がり浅くなって広い川原につながり
緩やかに右へ曲がりながら川幅が狭く深くなり
対岸の岩にぶつかり左へ「く」の字のように折れ曲がり
再び川幅が広がり広い河原につながります

京都には古式泳法の流れをくむ
「踏水会」があり
夏になると疎水を仕切って
水泳教室を開いていました

「疎水」とは琵琶湖から京都に
直接水を流す水路で
物流や発電の目的で
明治23年に完成しました
この電気で明治28年に
日本初の電気鉄道が
京都に開設されました

この踏水会に小学校の低学年の時にふた夏通って
「犬かき」で15メートルほど泳げるようになりました
「犬かき」は首を水面に出して泳ぐので
呼吸が楽で水も飲まずに済みます

そこで河原から対岸の岩まで
川を斜めに横切って
約10メートルほどだったので
余裕で岩に泳ぎ着けると
岩に向かって泳ぎ始めました

ところが岩に近づくほどに
川幅が狭くなり流れが速くて
泳いでも泳いでも岩にたどり着けません
必死に泳いで力尽きて沈みました

水を飲んで苦しく
沈んで水中から水面に
もがく右手が出ているのが見えたとき
「だめだ」と思いました

その瞬間驚くべきことが起こりました

苦しさは全く消え去り
もがく右手が水面に出ているのを
上から見ました

河原に多くの人々がざわめきながら
川床で食事したり
子供たちがはしゃぎまわったりしているのを
上から見ました
しかし不思議なことに何かが違っていました

目に映る山の緑も人影も
見えたのではなくただ感じたのでした

清流のせせらぎや河原の喧噪も
聞こえたのではなくただ感じたのでした

そうこうする内に
小さい頃からの様々な出来事が
走馬灯のように次々と現れては消え
消えては現れました

後から思い返すと
苦しいとか楽しいとか嬉しいとか怖いとか
そんな感情は一切消えて
唯その場の状況がそこにあるのを感じました

思い返すともう一つ不思議なことには
見えるものに遠近感がありませんでした

近くの木の葉を見ると
目を近づけると葉脈まで
細かく見ることができます
しかし遠くの山の木々は
鮮明に見えますが
葉の一枚一枚は見えません

ところが
近くの物も遠くのものも
変わりなく
見えるのではなく
ただそこにあると感じました

自分はそこには居なくて
唯その場の風景と喧騒を感じる
何かの意識が在りました

そうこうする内に突然足が
川底に着く感覚が蘇りました

流されて浅瀬に流れ着いたのです
我に戻って必死に岸に這い上がりまし
水を飲んでいたので
その後は死ぬ苦しみを味わいました

溺れるときの苦しみより
生き返った時の苦しみの方が
比べ物になりません

「自殺未遂の人は二度と自殺しないと」
言われますがその気持ちがわかります

当時まだ臨死体験が一般に知られておらず
この体験が何であったのか
よくわかりませんでした

ただ思い返すと
いくつか合点のいかないことがあり
それがなぜなのかずっと考え続けてきました

・もうだめだと思った瞬間になぜ苦しくなくなるのか?

⇒五感が遮断されるから苦しくなくなる

・死んで目にした上から見た光景が何故生き返って記憶にあるのか?視点が肉体から離れているのに記憶が肉体に残る不思議

⇒五感を介さずに脳が世界を直接認識(源識)したものを
蓄積された記憶と照らし合わせて
五感で認識する世界として認識した
⇒生き返ったということは
脳や身体が一部の機能を停止していても
崩壊していなかったことを意味する
 故に記憶機能も生きていて
源識による体験を記憶していた
⇒これまでに一旦死んで蘇った人はいない
蘇ったということは
一旦死んだと思われていたとしても
体と精神の機能が生きていたという事であるから
死んではいない

・見るでもなく聞くでもなくただ感じる感覚は何なのか?

⇒物も人も同じくスカスカな原子の集合体である
それを色や形や香りそして味などの有るものとして
認識するのは
その集合体を五感で捉えた世界として
認識するからである

つまり生命体は
その命を生きながらえさせるために
その生命体独自の意識を持っている

あなたは世界を五感で捉えて
その世界を認識する意識こそが
意識であると考えているでしょうが
それは本当でしょうか?

持っている感覚が違えば
全く違った意識が生まれるでしょう
では生命の無い物体に意識はあるのでしょうか?

深く深く思索すると全ての物は
そのもの自体を意識している
認識していると考える方が
合理的です
つまり

原子として
原子の集合体として
そしてその統合として
個別に自らを認識し意識すると
考える方が合理的です
この自らを認識し意識する事を
源識と名付けます


更に 一個の原子も原子の集合体も
原子を結びつける力によって
さまざまな集合体を作っているのであって
全体としてみれば
ただ原子間の距離がバラバラに
広がっているだけです

原子の散らばり方
表現を変えると集まり方が様々なだけです

原子が源識を持つなら
原子の多くの多様な集合体も
源識を持っており
個々の集合体の源識は
全体の宇宙の源識とつながっている

言い換えると
個の源識は全体の源識であり
全体の源識は個の源識の集合です

と言うことは
個別の源識間のつながりには
時間差がありません

同時につながっています

・死んで 正しくは臨死で感情が無くなる感情が無くなるというか自我がなくなる

⇒五感を遮断して源識で世界を認識すると
源識には自我が無いので感情が無くなる
自我は五感を生む肉体から生じる

・死んで生き返るまでわずか数十秒なのになぜ数時間以上の体験をしたのか

⇒人に尺度としての時間はありません
生から死への不可逆な流れがあるだけで
その虚の時間は意識の中で
自在に長くなったり短くなったりします
仮の尺度としての時間があるなら
それは人の外にあります

・立花隆の臨死体験

それから数十年たって
立花隆の臨死体験が上梓されました
これを契機に臨死体験に関する様々な書籍を読んで
庵主の体験が
いわゆる臨死体験と
共通するものだと知りました

臨死体験の一般知識に照らし合わせて感じた疑問

・一般的に言われる光のトンネルとかお花畑とか導く人に会うとかの体験をしなかったのはなぜか?

⇒そこへ行くまでに蘇ったから

・宗教や文化によって光のトンネル お花畑 導く人などの状況が異なるのはなぜか?

⇒何らかの共通の事象が生じているが
それを自身の体験記憶によって解釈する
例えばあなたがキリスト教の信者であれば
天使や精霊 天国や地獄を見るかもしれません
仏教の信者であれば
仏や極楽そして地獄を見るかもしれません
つまりこの共通体験を
自身の体験記憶に照らし合わせて解釈し認識します

虫の知らせ/夢枕

亡くなる方が死を知らせに来ることがあります
夢の中で姿を現せて死を知らせに来る
あるいは姿は見せないが何かがやってきて
後で誰かの死を知るということがあります

いずれも亡くなる直前に知らせに来ます

・庵主の叔母が病床から知らせに来た

母の妹でとても美しい叔母が居ました
家に行くとよくピアノを弾いていて
その美しい音色が今でも耳に残っています

大学生の時に仲間4人と野沢温泉に
春スキーに行きました

長いコースの途中に墓地があり
ところどころ墓石の頭が
コースの中に点在しています

夜になって炬燵に足を突っ込んで
十字の状態で4人で寝ていました
その夜2時ごろに2回目が覚めました

雪明りの中で部屋の様子は見えるのですが
なにか黒いものがのしかかっています

いわゆる金縛りの状態で
声も出せず体も動かせません

横に寝ている仲間の手に指を伸ばして
知らせようとするのですが届きません
そのうち楽になってぐっすり寝てしまいました

翌朝起きて仲間にその話をすると
みんな気味悪がってスキーをやめて
帰ることになりました

当時のスキーは京都駅から
身動きのできない夜行列車に揺られての旅程で
余程のことが無い限りスキーを中断して
帰るなんて考えもできなかったのですが
何故か全員一致で急遽帰ることになりました

京都の戻ると叔母が亡くなっていて
その葬儀に間に合いました

葬儀の後で何かにのしかかられた丁度その時間に
叔母が病院のトイレで倒れていた事を知りました

叔母には小学校高学年ぐらいの男の子と
低学年ぐらいの女の子が居ました

それから10年も経たない内に
叔母の連れ合いである叔父が亡くなり
従妹二人は七尾の親戚へ引き取られてゆきました

そして従妹とはずっと
年賀状を交わすだけの関係でしたが
数年前に突然従兄弟の奥様から訃報が届き
お悔やみに行きました
男のお子さんを二人残されていることを知りました

今から思い返すと
叔母が亡くなった後の子供のことを案じて
庵主にそれを訴えにいらしたのだと確信しています

・祖母の子供が戦地から知らせに来た

父方の祖母は十数人の子持ちでした
その中の一人は太平洋戦争に出征していました

有る時に祖母は
銃弾を受けた子供の姿を夢枕で見ました
後に死亡告知書が届き
やっぱりそうだったのかと悲しんだそうです

・何故離れた人に自分が死ぬことを伝えられるのでしょうか?何故本人の姿が現れる場合と漠然と何かが訪れる場合と何も伝わらない場合があるのでしょうか?

⇒現代の科学では究明できていない
電波のような性質のもの
源波で死を知らせています

死の知らせを送る側と知らせを受け取る側で
周波数(のようなもの)が一致すれば姿が見えます

例えばラジオ局の送信周波数に
ラジオ受信機の周波数がぽったり合っていれば
放送が明瞭に聞こえます

知らせを受け取る側が
知らせる側の周波数にぴったり合わせられない場合
何かがやって来るのはわかりますが
それが何か判然としません

例えばラジオの周波数が少しずれて
雑音の中に音声がとぎれとぎれになる状況です

死の知らせを送っているのに受け取れない場合
例えばラジオの周波数が全くあってない状況です

この周波数のような物を源波と名付けます

源波は周波数のような性質を持つものと
それを伝搬する媒体のようなものが
一体となったようなもので
時間差ゼロで伝わります

いわゆる電波や音波と似ていますが
異なる性質を持っています

この源波を発する能力や受ける能力は
人それぞれで能力が強い人と弱い人があります

この能力は遺伝形質のようで
庵主の父の家系はその能力が
比較的に高いのでしょう

この能力は訓練すれば高めることができます

しかし本来使われない能力なので
それを無理に使うと精神に異常をきたす可能性があります
ですから興味本位に試すのは避けてください

例えば非常に強い光の中に目をさらし続けると
視力に障害を生じるのと同じです

本来持っている能力を大切に使っていただきたいです

・確かに何かを伝える現象があるのになぜ科学で解明されないのでしょうか?

再現性のないものは科学では認められません

例えばテレビの放送は
テレビが壊れていない限り誰でも見れます
しかし死の知らせは一度きりで再現性がありません

しかも死の知らせを受け取れる人と
受け取れない人がいます

いくら科学的でないと言っても
多くの経験談が有る現象は存在するのです
少なくともそれを体験した方には現実です

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