観実論

観実

観実とは

哲学や科学そして宗教等の人類の英知と
様々な人々の経験談そして庵主の経験を総合して
俯瞰し勘案して得た知見から
・人生の歩み方
・幸せな人生の終わり方
を主軸として解説し 併せて
 ・善悪とは何か
 ・世界はどのように成り立っているのか
 ・意識はどこから生じるのか
 ・天国、極楽、地獄は有るのか?
 ・死後の世界よりも重要な死期
等についてもお話しします

観実の構成

観実の論じる所については  観実論で
観実論の基になる仮説を   観実説で
仮説の根拠を        観実由で
この三つの章に分けて説明します

ここに述べる全ては
庵主の経験により導き出したものであり
「人は経験によって作られる
 経験が異なれば違った意見や主張が生まれる」
との考えに基づきご意見や情報提供は歓迎いたしますが
論争は無意味ですので謝絶いたします

論争は非難を生み
非難は憎しみを生み
憎しみは戦争を生み
戦争は殺戮を合法化します
殺戮の合法化の行き着く先は
人類の破滅です

この世界に必要なのは
論争ではなく相互理解です
相互理解が互いの尊重に発展し
そこから慈愛が生まれれば
この世界から苦しみや悲しみが
消え去るでしょう

2024年5月5日
観実庵 庵主 河合 厳

観実論

観実について11の核心を
真実層、顕実層、結論層、観実層の
4層に分けて述べます

真実層

①唯一の真実は今の刹那を意識している自分が居る事
庵主
庵主

あなたを取り巻く世界や人々は
本当に存在しているのでしょうか?

確かに存在しているように思えます

目の前にあるリンゴをかじれば美味しいです
でもそれはあなたの独り舞台のために
用意された小道具かもしれません
正気なら「そんなはずはない」と思いますが

そんなはずはないことを証明できますか?

あなたの近くにいる人に
「あなたは誰ですか?」と尋ねれば
「○○です」と答えが返って来るか
怪訝な顔をして無視されるかわかりませんが

間違いなく何らかの反応が返ってくるでしょう
しかしその人があなたと同じように
意識を持った人間であると証明できるでしょうか?

その人はあなたより高度で高性能な
舞台装置かもしれません
あるいは幻影かもしれません

昨日の出来事を思い出してください
それは本当にあった出来事でしょうか?

あなたがそう思っているだけかあるいは
そう思い込まされているだけかもしれません

昨日は本当に在ったと証明できますか?
あなたは夢と現実の区別ができますか?

夢が覚めて
「あれは夢だった」と思うことは確かにあります
夢の中で寝る前の出来事が
現実だったと確認できますか?
夢が現実で 現実が夢かもしれません
それとも全てが
幻や蜃気楼のようなものかもしれません

天に向かって「こんな茶番劇は止めてくれ!」と叫べば
周りの世界はすべて崩れ去るかもしれません

つまり あなたが
間違いなく存在していると確信できるのは
今の刹那を意識する自分が居る事だけです


だからと言って現実の世界で
好き放題やりたい放題するのは
賢い選択ではありません

好き放題やりたい放題しても
何の問題も起こらないかもしれませんが
あなたの経験からすれば
まず間違いなく好ましくない結果が返ってくるでしょうから
経験則に従って現実を判断し生きるのが賢明です

顕実層(経験則に基づく層)

②現実は虚であり全ては経験からの想像である
庵主
庵主

あなたの実態は透明人間ですか?

科学の知見によれば
自分の体を含め
この世界の全ての物質は
原子で構成されており
原子と原子の間は空間でスカスカです

その証拠にあなたの体をX線は素通りします
ニュートリノはどんな物質も透過します

あなたは生まれてから
そんなスカスカな世界を
五感を通して感知し蓄積して
原子の集まりである物体ごとの
形、色、香り、感触、味などを
記憶し蓄積します

それによって物体ごとに
それが何であるかとの認識を形成します

例えば目の前のリンゴは
スカスカな原子の集合体ですが
それを五感を通じて感知して
例えば赤いリンゴと記憶します

そして目の前に赤いリンゴがあると
それを五感で感知してそれらを記憶に照らし合わせて
赤いリンゴとして認識します

このように世界の本当の姿は
私たちが認識する現実の世界とは全く違っています

例えば私たちが五感即ち
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚で認識する赤いリンゴは

目で見ると赤い色をした球体に近い形状で
たたくとやや柔らかい音がして
甘い香りがして
触るとすべすべして
食べると酸味と甘未の独特の味がします

今、私たちが見る目の前の赤いリンゴの姿を
本当の姿だと仮定してこのリンゴを
触覚しか持たない仮想動物が触れてみると
何か丸い凸凹した物と認識するでしょう

色しか判別できない仮想動物が見たら
何か赤いものと認識するでしょう

香りしか判別できない仮想動物が感じたら
甘い香りの空間と認識するでしょう

どれも私たちが見る
本物と感じる赤いリンゴではありません

もう少し具体的な例を挙げると
私たちは紫外線を見ることができません

しかしミツバチや蝶類は
紫外線を色として認識します

私たちは電波を感じ取る器官を持たないので
電波を感じる事ができません

しかし電波を感じ取る装置
例えばテレビを作って
電波を私たちの感覚で捉えることのできる
音や色に変換するのでテレビを見ることができます

五感以外の何らかの感覚を持つことができれば
赤いリンゴはもっと違ったものと捉えるでしょう

このように
私たちが現実の世界と認識しているのは
私たちの限られた五感が経験により創り上げた
虚像の世界なのです

③人の心は経験により作られる
庵主
庵主

あなたの心は何でできていますか?
あなたの今の心は1年前の心と同じですか?
同じ心でないなら何が変えたのでしょう?

1年の間に色々な事があり色々考えたでしょう
その思考が新たな行動を生み
またその行動が積み重なって経験となり
経験が心を作ります

あなたの心の多くは
あなたに関わった人や経験でできています

「朱に交われば赤くなる」、「孟母三遷の教え」など
古く方伝わる教訓はまさにこの事を表しています

「朱に交われば赤くなる」とは
朱(赤い顔料)に触れれば赤くなるように
あなたの近くにいる人によって
あなたが染まる

つまり悪事を働く人に近くにいれば
影響されて悪事を働くようになる

好ましい人の傍にいれば
好ましい影響を受ける
との格言です

「孟母三遷の教え」とは


今から約2400年前に孟子と言う
中国戦国時代の儒学思想家が生まれました

孟子は最初墓地の近くに住んでいて
葬式のまねごとを始めたので
お母さんは市場の近くに転居しました
そしたら孟子が商人のまねごとを始めたので
学問所の近くに転居しました
そして孟子は学問を志し
儒学思想家として大成した
という逸話です

環境による経験の積み重ねが
人の行動や志向を創るので
教育には環境が大切だ
という教えです

英語の格言

英語にも次のような格言があります

“Show me your friends and I’ll tell you who you are.”
“A man is known by the company he keeps.”
“Tell me who your friends are and I’ll tell you who you are.”

環境が 環境で積み重ねる
経験が人を作る


これが古今東西の経験が生んだ知恵です

経験は人それぞれ違って同じものはありません
故に人の心や考えは人それぞれ違います
どれが正しくてどれが間違っている
という世界ではありません

どれもその人にとっては正しいのです
ですから
互いに理解しあうことが必要なのです

④人は時空を超えて因縁でつながっている
祖母
祖母

人と言う字は1本では立たない

庵主が幼い頃祖母から言い聞かされた言葉です
しかし妹は「武士に二言は無い」と言い聞かされたそうです

祖母は最後の侍の娘で
当時の女性としては大柄で
いつも背筋を伸ばして正座していた姿が
目に浮かびます

丙午の生まれで気高く確固とした
自分の考えを持っていました

そして子供の素質を見抜く力を
持っていたのでしょう
だから庵主と妹に違う言葉を
残したに違いありません

ちなみに庵主は
あんなに言われた言葉の
意味を介さず人に無関心で育ちました

そして社会に出てもまれて
祖母の言葉の意味を悟りました

祖母の言葉が今になって庵主の行動に
大きな影響を与えていると感じています

この祖母の言葉は
祖母自身の経験から
生まれたものかもしれませんし
もっと昔のご先祖様の経験から
受け継いだものかもしれません

仮に祖母の経験から生まれた言葉
だとしてもその経験は外界からの影響
例えば他人の言葉、書物などを受けています

それが祖母を通じて庵主に伝わり
庵主からまたあなたに伝わるかもしれません

そこからあなたは
新しい行動を起こすかもしれません
これを因縁と言います

例えば ひまわりの種があるとします
これが因です
種は種だけでは発芽しません
一定の水分や温度などの条件で発芽し
土中の栄養分で花を咲かせます
この水分 温度 栄養分などの
環境を縁と言います

因縁により人は時空を超えてつながっています

とりわけ大きな因縁である祖先をたどり
祖先のどのような思いが
あなたの命につながったかに
思いを馳せれば
生きる力が湧いてきます

⑤人には魂があり魂が善を渇望します
庵主
庵主

魂はあるのでしょうか?

あなたはより善く生きたいと思いませんか?
そんなこと思っていないですって!

よぉく 心の底に耳を澄ませてください
どんな悪人も心の奥底で善く生きたいと願っています

どんな人も心の底で善く生きたいと思っている
それが魂の存在している証です

魂あなたの人生の道標であり善への渇望です
善への渇望を信じる人に
幸せと生きる喜びが訪れるのは必然です

善への渇望を信じる人には心の平安が訪れます

心に平安がある人には
生も死もありません
唯今が在ります

魂は活きるための道を指し示します

しかし無意識の奥底に潜んでいる
魂の叫びはなかなか聞こえません

意識して魂の声を聴こうとする努力が必要です

努力しても努力してもすぐに声は聞こえません
しかし魂に問う努力をしていれば
いつか必ず答えが返ってきます

この魂を一般的に言われる魂と分けて「源魂」と呼びます

⑥人に時間は存在しない
庵主
庵主

時間とは何でしょうか?

朝8時に朝食を摂って
12時に時計が昼食の時刻を教えてくれます
朝の9時に始業する会社では
社員全員が9時から仕事を始めます
時間とはある時刻と時刻の間を図る尺度です

尺度は一定の社会の中で共有されています

例えば30センチの定規はだれにとっても30cmです
時間も同様です

学校で先生が生徒に
「1時間後に体育館に全員集合してください」と言えば
全員同じ1時間後に体育館に集まります
私の1時間後はだれにとっても同じ1時間後です

私の1時間後とあなたの1時間後が同じでなければ
時間は尺度と言えません

逆に言うと尺度でない時間は時間と言えません
生まれてそして死ぬ体を持つ生物だけが
生から死までの経過を
時間のようなものと感じるのかもしれません

庵主の不思議な体験

詳しくは

1963年 中学2年生の夏
京都の高尾の清滝川で溺れて
不思議な体験をしました

溺れて苦しくてもう駄目だと思った瞬間
溺れる自分を上から見ていました

河原に多くの人が居ましたが
誰も溺れているのに気づきません

山は緑の木々に覆われ
川は涼やかに
音を立てて流れていました

その光景も人のざわめきも
見ているのではなく
聞こえているのではなく
唯感じていました

それからしばらくして
生まれてからこれまでの出来事の光景が
走馬灯のように流れました

その瞬間足が川底について
現実に戻り岸に這い上がりました

溺れていた時間はわずか十秒程
その間は時間の感覚は全くありませんでしたが
それ等の光景を思い出すと
少なくとも数時間はあったでしょう

とても不思議な体験で
これは一体何だったのだろうと
ずっと疑問に不思議に思っていました

それから30年以上経って
立花隆の「臨死体験」を読んで
これが臨死体験だったのだと気付きました

そしてこのように臨死で時間が著しく伸びる
或いは時間が無くなる感覚は
臨死体験者に共通する経験だと知りました

つまり時計が刻む1時間は1時間ですが
人の感じる時間は伸びたり縮んだりします
人が感じる時間は主観的であって
尺度が無く時間とは言えません
唯頭の中で光景が流れて行くだけです

アキレスと亀

ギリシャの哲学者ゼノンが提示した
「アキレスと亀」と言うパラドックスがあります

俊足で名高いアキレスが亀を追いかける場合

亀が最初にいた地点にアキレスが着いたとき
亀はその地点より少し先に進んでいます

その地点にアキレスが着いた時には
亀は更にその先に進んでいます

つまり俊足のアキレスは亀に永遠に追いつけません
これと同じようなことが死の間際に起こっています

つまりアキレスは「死」であり「亀」は死に逝く人です
死に逝く人を枕元で見送る人は
時間が経てば必ずその人が死ぬのを見届け
葬儀を行います

しかし死に逝く人にとっては
永遠に死に追いかけられていると
感じるかもしれません

死に際が幸せであれば
永遠の天国 極楽 浄土のように
感じられるでしょうし

死に際が地獄のような状態であれば
それが永遠に続くと感じられるかもしれません

この状態を抜ける事ができて
「死」に追いつかれた時
そう感じた時
初めて死の安らぎを迎えることができるでしょう

⑦人は死ぬ前に自らの魂に裁かれる

人生には人それぞれの目的があり
その目的を遂げて迎える死は
至福に満ちたものであり
その目的に反して迎える死は
苦しみに満ちたものであるのは必然です

苦しみは五感や経験から生じるものなので
肉体が完全に死んでしまえば崩壊してしまえば
苦しみは起こりえません
喜びも消え去ります
しかし、問題は死ぬ前です。

人はどのように死に逝くのか
死への準備

自然死の場合死期が迫ると
食欲が減退します

そうして肉体が
終わりを迎える準備をはじめます

しばらくすると
意識混濁期が始まります

起きている時と寝ている時の
境がはっきりしなくなります
断続的に五感が遮断され始めます

五感が働いている時は
現実の世界にいる認識があります

五感が遮断されると
脳は五感に頼らず世界を把握しようとします

そして源波(波動のようなもの詳しくは「源波とは」参照)で
外界と直接つながります

五感から解き放たれたことにより
時空を超えて思い出の場所や知人を訪れたり
先立ったあるいは存命の知人や
知らない人が訪れてきたりします

臨床現場ではこれを「せん妄」と呼びます

現実ではない世界の話を当人がするので
意識の混乱、妄想の状態と判断しているわけですが
本当にそうでしょうか?

当人は源波で思い出の場所や
知人を訪れているのです

夢の知らせ等の言葉が存在するように
古来そのような体験が多く報告されています

庵主自身も叔母が夢枕に訪れましたし
父方の祖母も自分の子供(父の兄弟)が
戦地から死を知らせに来たそうです

(母方の曾祖父は死の床で朝鮮総督に居た叔父に会いに行ったそうです)

父は亡くなる1か月ほど前に
先だった姉が会いに来て
「まだ来るな」と言われたと言っていました

それからしばらくたって
父は先だった姉が「いらっしゃい」と言っている
と言ってそれから数日後に亡くなりました

母は無くなる1か月ほど前からよく
「知らない人が部屋にやってくる」と
言っていました

死の床に臥せっているのに
遠くを訪れたり人に会ったり
誰も来てないのに人が訪れたなど
現実の我々にとっては有り得ないことを言うので
医学的には「せん妄」と決めつけていますが

実際は源波で知人と通じ合ったり
思い出の場所を訪れたりしているのです

死の裁き

この時期から死の裁きが始まります

あなたが害した人が
恨みをもって
死の床にやって来るかも知れません

あなた自身の魂が
あなたの人生を振り返らせて
罪を咎めるかもしれません

これが地獄です

一方人生の目的を果たした人にとっては
嬉しい思い出を振り返えったり
恩を受けた人が感謝にやって来るかも知れません
幸せな思いに包まれるでしょう

これが天国であり極楽です

この経験が臨死前記あるいは
後期まで続くかもしれません

しかし死に逝く本人にとっては
時間が消え去り
この期間が永遠と感じるかもしれません

死の選択

最後に「もう駄目だ」あるいは
「さあ逝こう」と自分で決断して臨終となります

五感を完全に遮断し源識で外界を認識し始めます
これ以降のどこかで医師による死の宣告が成されます

臨死前期

五感はもう機能していません

しかし脳の機能はまだ残っているので
外界を記憶された経験で解釈し認識します

その結果
死の床に伏した自分や周りの人を上から見たり
ざわめきを聴いたりします

しかしそれは五感を通じて認識しているのではないので
現実の世界の感覚とは大きく異なります

唯見ているように感じ聴いているように感じます

そこには自我はありません
喜怒哀楽もありません

自我や喜怒哀楽は五体由来するもので
それ等を遮断した後には自我も喜怒哀楽も存在しません

臨死後期

この期間で起こる事柄は
その人の育った環境や社会
そして宗教などによって異なります

例えば仏教の信者であれば仏さまに導かれて
キリスト教の信者であれば天使に導かれて
先立った知人あるいは知らない精霊に導かれて
あの世や彼岸に向かいます

光のトンネルを抜けたり、お花畑を通ったり
その人の死生観に沿った世界が展開します

なぜ人によって体験が違うのでしょうか?

この期間
人は現実では全く体験したことのない体験をします
それを自分の経験や知識に当てはめて
それぞれが解釈し認識するので
人それぞれ認識が異なるのです

例えば視覚しか持たない人がイチゴを見ると
イチゴが見えますが
においも触った感覚もありません
ただイチゴの映像だけを認識します

嗅覚だけを持った人がイチゴを嗅ぐと
甘いイチゴの香りだけを感じます
赤いイチゴの姿を感じることはできません

触覚だけを持った人がイチゴに触れれば
何か細かいブブ物の有る小さな物体だけを感じ取ります

このように同じイチゴを体験しても
その人の持っている感覚だけで解釈するので
三人三様の全く異なる解釈や認識をします

臨死後期の体験が人によって大きく異なるのは
人それぞれの経験と知識で
この期間に起こる事象を解釈し認識するからです

事故死などの突然死の場合

突然死の場合は
準備期と意志混濁期を飛ばして
「死の選択」から始まります

事故などで意識の遠のく人の側で
「頑張って」「逝かないで」と自然に声が出るのは
本人が「死の選択」をするのを止めようとする
人が持つ根源的な行動です

体が朽ちるのは意志で止められませんが
「死の選択」は自分の意志で行われます

⑧真の善とは

一般的には善を定義するのは著しく難しく
悪を定義するのは容易です

例えば、学校で難しい問題が出て
友達に回答を教えるのは親切です

しかし、教えることによって
友達が自分で考える機会を奪うのであれば
余計なお世話です
友達の学習機会を奪う点では悪です

収入が少なくて困っている人に
毎月お金を支援するのは
一見善行のように思えますが
そうでしょうか?

お金で支援することによって
その人の収入を増やそうとする努力や知恵を
摘み取っているかもしれません

お金で支援するより
収入を増やす方法を一緒に考える方が
結果的には善行かもしれません

ゲームばかりやって
勉強しない子供から
ゲーム機を取り上げたらどうでしょう?

勉強に集中するようになって
難しい大学に入って
一流と言われる会社に入社できて
安泰な生活をできるかもしれません

反対に親の干渉に我慢できなくなって
家を飛び出し身を持ち崩すかもしれません

ゲーム機を取り上げず好きなようにさせたら
成績が落ちて進学もままならず
その後の人生も生きづらくなるかもしれません

一方四六時中ゲームに打ち込んで
e-sportsで優勝して若くして立派に自立するかもしれません

事程左様になにが善かと定義するのは困難です。
一方、一般的な悪の定義は簡単です

法律に反するのは悪
社会規範に反するのは悪

なぜ人を殺してはいけないのでしょうか?

答えは簡単、法律や社会規範に反するからです

法律や社会規範は理想的には
その社会がより良く存続するために作られています

この「より良く」の定義が困難ですが
その時々の社会の一般的な共通認識に基づく
としか言いようがありません

では真の悪とは善とは何でしょうか?

一般的な善悪と反対に真の善悪では
悪の定義は困難不可能と言ってもかまわないでしょう

しかし善の定義は簡単です

人を殺すのは「悪」ですか?

とんでもない質問だと思われるかもしれませんが
良く考えてみれば「悪」とは限らないと直ぐにわかります

例えば戦争、戦争は悲惨です
あなたの国が隣国から攻め込まれ
あなたは戦って敵を多く殺し
あなたの国を侵略から守ったとします

敵を殺したあなたは悪人ではなく英雄です
今では国際法で戦争(戦闘)による殺人は罪ではありません

大昔、2000年ほどさかのぼると国際法などありません
でも自分たちの集落が攻められたら敵を殺さないと自分たちが滅びます

より多くの敵を殺した人は集落を救った英雄です

このように考えていくと「真の悪」の定義は困難です

一方「真の善」の定義は明白です
それは「生きながらえること」です

あなたが、家族が、社会が、国が、人類が
生きながらえることが「真の善」です

言い換えると「人類の種の継続」が唯一無二の善です

あなたが、家族が、社会が、国が、人類が滅びれば
善も悪も意味を失います

あなたが今生きていることに意味があるなら
いや 生きていることに意味があります

故にあなたの命を保つこと
「生きながらえること」が真の「善」です

人には命に限りがあります
その時が来るまで全力で生きながらえることが
あなたにとって真の「善」です

もう一つ付け加える事があるとするならば
あなたが あなたの人生の目的を見つけて
それを達成することが「次善」です

結論層

⑨経験する全ての事に意味がある

あなたに「善い行いをしなさい」と
源魂の声が聞こえるなら
あなたの人生に意味があり目的が在ります

あなたの人生に意味があるなら
経験するすべての事に意味があります

その意味する所が何であるのか
常に気に掛けることができれば
自ずと道は開けます

悪いと知りながら悪事を働いて上手く行って
これが正しい道だと思ってはいけません
これが正しい道だと勝手な理由をつけてはいけません

自分は不幸だ理不尽だ
だから人の幸福をかすめ取っても許される
このように自己弁護する人がいます

それが正しいのかどうか
心の奥底にある源魂に耳を傾けなければなりません

苦喜怒哀楽、経験する全てが
生きる意味を探る道の一里塚です

前向きでなくてもいい
臆病でもいい
唯 もがけばいい

そうすれば
自分にしかないものが必ず見つかります

いつかそれを見つければ
そして振り返れば
あなたの後ろに真っ直ぐな道ができています

あなたの生きた証であるその道が
即ちあなたの生きる意味を指し示すでしょう

観実層

⑩全ての物質には意識があるそして死とは

物を分解していくと原子そして素粒子
(これ以上分解できない粒子)に
たどり着きます

つまり全ての物質は
生き物であれ鉱物であれ
原子の構成物として存在します

そしてこの原子や素粒子は
それ自体を認識する意識を持っています

加えて原子で構成された物体は
すべてその塊としての意識を持っています

この個別の意識は全て繋がっていて
宇宙意識を構成しています

この根本的な意識を源識と名付けます
個々の原識は個々であり同時に全体です

所が生物の意識はこの源識とは全く違います

個々の生物は
その生物が持つ感覚で
自らと外界を認識しています

人間は五感で自らと外界を認識していますし
植物は持っている感覚
例えば温度や光や触感で
自らと外界を認識しています

そして命が尽きた時
言い換えれば持っていた感触が失われた時に
源識に戻ります

源識には自我が無く自らと宇宙全体を認識します

観世音菩薩

仏教の観世音菩薩は観自在菩薩とも呼ばれ
世界を自在に観察できる菩薩を意味しています

世界を自在に見る事でもなく自在に聴くことでもなく
すべて合わせて「観」と表現しています

つまり五感を通して世界を自在に感じているのではなく
唯観している 即ち源識です

⑪全ての源識は源波でつながっており世界は源波で満ちている

この世界は
波動の性質と波を伝搬する媒体を併せ持った性質を持っ物で
満たされておりこれを源波と名付けます

源波は時間を超えて同時に伝わります

源波は周波数のような性質も持っており
この周波数のようなものが
お互い合った物質同士で伝わります

例えば「あの人とは波長が合う」と言います
意見が合うとか趣味が合うとかではなく
もっと深いところでつながっていることを表します

宇宙は様々な周波数のようなものの源波で満たされており
源波が原子や素粒子を生み原子や素粒子は源波に戻り循環します

タイトルとURLをコピーしました